母と私の関係
母は、とてもお喋りな人でした。
そんな母にとって、私は「一番の話し相手(相談相手)」でした。
私にとっても、母を怖いと思ったことは一度もなく、なんでも言い合える「友達」のような関係でした。
母は、父の態度(DVやモラハラ気質)に対して、愚痴や不満をよく話していました。
子供の中で愚痴を私にばかり電話(かなり長時間です)してくるので、一時はかなりのストレスでもありました。
自分の生活リズムが崩されることも多々あり、素っ気ない態度をとってしまうこともありました…
けれど、母がやはり可哀そうだと思う気持ちがあったので、すぐにこちらから電話する日々でしたね…
他の兄弟は母の話を率先して聞くタイプではなかったので、すべての負荷が私にかかっていました。
母には他の兄弟にも連絡をしてくれと言ったのですが、やはり、私に相談してきました。
なぜ母は、ここまで母のことを見下す人との生活を続けなければならなかったのか。
なぜ、私は、離婚に向けての対応をとってあげなかったのか…。
母が亡くなってからは、後悔ばかりです。
母は、金銭面で父から離れられないところはありました。
父がそれなりの稼ぎがあったため、少し裕福な生活をしていたからだと思います。
その生活を、母には捨てる勇気がなかったのです。
母との電話で、ただ愚痴を聞いて 父の悪口を言い合うことよりも、
そんな家を出て、自立して生活する力を付けるように助言することが、相談相手としての私の役目だったのかもしれません。
その時は、とにかく、母の愚痴を聞き、相談に乗ることが最善策だと信じて疑いませんでした。
母は病気になってからも、父のことでよく愚痴をこぼしていました。
病気の母に対して、よく嫌なことできますよね・・・そこが信じられません。
しかし、母の病気が悪化していくと、
母は「自分の病気で精いっぱい。嫌な態度を取られても、離婚する気力がない。」と言っていました。
母は最期まで、私たち子供にとって「優しい母」でした。
自分のことで大変なはずなのに、「遠いのにありがとう」「感謝してるよ」と声をかけてくれていました。
その反面、父には冷たい態度をとるようになっていました。最後の母の抵抗です。「そうそう!やってやれ!」と心の中で思いました。
父との騒動(恫喝事件)で、実家に帰ることが億劫になってしまったのですが、
父との関わりに極度のストレスを感じながらも母に会いに行きました。
喋ることができなくなった時も、私たちを見ると、目くばせがとても嬉しそうに見えました。
そんな母に、私たちこどもはできる限り寄り添いました。
心からそうしたかったからです。
母から「愛されている」実感がありました。
母には本当に感謝しています。
母がいないことが、未だに受け止められていません。
きっと10年経ってもそうなんでしょうね…。
病状が悪化した母を側で看ていたので、
夢に出てくる母や思い出す母が、「ベッドにいる母」でしたが、
最近は「よくお喋りをする元気な母」になってきました。
母に会いたいです。