自己愛性パーソナリティ障害の父と絶縁しました④
絶縁のための書類が全て完了しました。
最期の「もしかしたら、父が謝罪や反省の言葉を言うのではないか…」という、淡い淡い淡い…気持ちが、最期まで叶うことはありませんでした。
弁護士さんを通してのやりとりで、最期まで父が反省や謝罪をしている様子はゼロでした。
親戚などを通して、こちらの真意が伝えられているのに…です。
自分の不利になるような情報は、どうやら記憶から消すようです。
父は、今までの暴力や暴言が「やってはいけないこと」という認識ができないようです。
自分の論理を人に説得するために、「暴力や暴言」を使うのは絶対にしてはいけません。それは説得ではなく、相手の判断を取り上げて隷属させているだけの行為です。
しかし、それを父に言ったところで、何も伝わらないでしょう。
まぁそんなこと言ったら、暴れて警察沙汰ですね。恐ろしい。。。
母と私の関係
母は、とてもお喋りな人でした。
そんな母にとって、私は「一番の話し相手(相談相手)」でした。
私にとっても、母を怖いと思ったことは一度もなく、なんでも言い合える「友達」のような関係でした。
母は、父の態度(DVやモラハラ気質)に対して、愚痴や不満をよく話していました。
子供の中で愚痴を私にばかり電話(かなり長時間です)してくるので、一時はかなりのストレスでもありました。
自分の生活リズムが崩されることも多々あり、素っ気ない態度をとってしまうこともありました…
けれど、母がやはり可哀そうだと思う気持ちがあったので、すぐにこちらから電話する日々でしたね…
他の兄弟は母の話を率先して聞くタイプではなかったので、すべての負荷が私にかかっていました。
母には他の兄弟にも連絡をしてくれと言ったのですが、やはり、私に相談してきました。
なぜ母は、ここまで母のことを見下す人との生活を続けなければならなかったのか。
なぜ、私は、離婚に向けての対応をとってあげなかったのか…。
母が亡くなってからは、後悔ばかりです。
母は、金銭面で父から離れられないところはありました。
父がそれなりの稼ぎがあったため、少し裕福な生活をしていたからだと思います。
その生活を、母には捨てる勇気がなかったのです。
母との電話で、ただ愚痴を聞いて 父の悪口を言い合うことよりも、
そんな家を出て、自立して生活する力を付けるように助言することが、相談相手としての私の役目だったのかもしれません。
その時は、とにかく、母の愚痴を聞き、相談に乗ることが最善策だと信じて疑いませんでした。
母は病気になってからも、父のことでよく愚痴をこぼしていました。
病気の母に対して、よく嫌なことできますよね・・・そこが信じられません。
しかし、母の病気が悪化していくと、
母は「自分の病気で精いっぱい。嫌な態度を取られても、離婚する気力がない。」と言っていました。
母は最期まで、私たち子供にとって「優しい母」でした。
自分のことで大変なはずなのに、「遠いのにありがとう」「感謝してるよ」と声をかけてくれていました。
その反面、父には冷たい態度をとるようになっていました。最後の母の抵抗です。「そうそう!やってやれ!」と心の中で思いました。
父との騒動(恫喝事件)で、実家に帰ることが億劫になってしまったのですが、
父との関わりに極度のストレスを感じながらも母に会いに行きました。
喋ることができなくなった時も、私たちを見ると、目くばせがとても嬉しそうに見えました。
そんな母に、私たちこどもはできる限り寄り添いました。
心からそうしたかったからです。
母から「愛されている」実感がありました。
母には本当に感謝しています。
母がいないことが、未だに受け止められていません。
きっと10年経ってもそうなんでしょうね…。
病状が悪化した母を側で看ていたので、
夢に出てくる母や思い出す母が、「ベッドにいる母」でしたが、
最近は「よくお喋りをする元気な母」になってきました。
母に会いたいです。
父の考える「話し合い」とは
父は自分が気に入らないことがあると、「激怒」し、その後いつも「話し合い」を求めます。
※激怒したことを、反省・謝罪したことは一度もありません。父は、話し合いよりも、この激怒によりどれだけ人を傷つける発言や暴力を行っているかを考えるべきです。
母はこれが大嫌いでした。
母が病気になったころから、母はこの「話し合い」から逃げるようになりました。
今までの母にとっては、大きな抵抗です。
そもそも、大病の母を怒鳴りつけるあたり、何を考えているのでしょう。
なぜ、母が逃げるようになったのか。
それは、その「話し合い」が「父が勝つためだけの、自己満足な話し合い」だったからです。
とにかく、自分が満足したいだけなのです。
母を言い負かして、「どうだ!やっぱりお前が間違っていただろう!さぁ謝れ!」と言いたいだけです。
そこに、「自分が間違っているのかも」という心理はありません。
父にとっては「話し合い」は勝負の場で、勝負をして自分が勝たないことには終われないのです。
母が、そんな父の「話し合い」を避けるようになって、父は不完全燃焼を繰り返していました。
「話し合い」を避ける母を待っているのは父による露骨な無視です。
無視をされても、母は父の食事を作っていました。
その食事を食べる父を見て「無視してても私が作った食事は食べるのね」と私に話していたのを覚えています。病気で大変なのに、無視している相手によく食事を作ってあげようと思うな…と思いますが。。
私は、父とは違うタイプの性格なのですが、以前は少し「似ている」ような気がしていました。
私の場合は、激怒してしまった場合、
まず第一に、「怒ってしまった自分が人として未熟で、恥ずかしい」と思います。でも、その気持ちを素直に謝れないので、父もおそらくそうなのだと思っていました。
(私の場合、数時間でその恥ずかしさに耐え切れず「私って短気だよね…なんでこうなんだろう…ごめんなさい…」と謝るのですが…)
しかし、父は違いました。
私の中で作り上げた幻想だったようです。
今回の絶縁騒動のことで、父からは「父自身の性格についての謝罪」は全くありませんでした。父にとってはいつものことで、「ちょっときつく言った」レベルなんです。
母は、いつもあのレベルのことをやられていたのだと思い、胸が苦しくなりました…。
母をあの場から救ってあげなければいけなかったのだと、どうしようもない気持ちになります。
母に会いたいです。もっと自分のための人生を送ってほしかったです。
疑念だった「父は自己愛性パーソナリティ障害なのでは…」が、どんどんと確信へと変わりました。
本当に残念です。
父への手紙
父は、昔ながらの人なので、パソコンやスマホは持っていません。
なので、このブログが父へ届くことはないのですが、父へ伝えたいことを手紙の用に綴ろうと思います。
お父さんへ
お父さん、これから先、歳を重ねていく中で、できないことが増えていくことかと思います。
そんな中、このようなことになり大変残念です。
私たちは、大人になり、お父さんの社会的地位を尊敬をするようになりましたね。
それまでは、ただ「怖い」存在だったのに、その地位を私たちが理解し、もてはやすようになりました。
その辺りから、私たちを「自分の承認欲求を満たす存在」になったのではないでしょうか。こどもの時よりも、楽しく過ごせることが増えていたと思います。
いい意味で、お父さんは「怖いだけの存在」ではなくなっていました。
今思えば、一番幸せな時期でした。
そんな中、お母さんへの態度は変わりませんでしたね。
いつまでも「女は三歩下がって歩け」「俺と対等になろうと思うな」「俺のやることに文句を言うな」なんて、時代錯誤甚だしい言葉を平然と放っていたことに、今も嫌悪感を持ちます。
お母さんの立場になって一度でも物事を考えましたか?
昔の愚痴を言うお母さんに、一度でも謝罪をしたことがありましたか?
愚痴を言われても仕方ないのに、なぜ反省できないのですか?
なぜ、いつも怒りに支配されているのですか?
お母さんは「病気になれば、お父さんは理解してくれるだろうか。」「病気になりたい。」と口ずさむことが多くなりました。
お母さんは、本当に病気になりました。
病気になったお母さんは、最初のころ、「これでお父さんが変わるかもしれない」と本気で言っていました。
そこに、「自分」はありません。
夫のために病気になりたいと思っていたんです。
お母さんの人生を返して下さい。
病状が悪化した際は、少しずつお母さんへの態度が優しくなったように私たちには見えていました。私たちも、そんなお父さんへ寄り添うようになってきていましたね。
でも、すぐに、お母さんから私たちへ愚痴の電話がかかってきていました。
時には、泣きながら「私の人生はなんだったのか」とお母さんは繰り返していました。
なぜ、深刻な病気の妻をそんな状況にするのですか?
病と闘っている人に浴びせるにはあまりにも酷すぎる言葉の数々を、私たちはいつも聞かされていました。でも、お父さんが怖くて指摘することができませんでした。
余命短いお母さんが、お父さんの心無い一言で「あの人に、私の苦しみはわからない!早く死にたい!」と泣いているのを見て、私たちは、ここで声を上げなければいけないと思いました。
いつ指摘しようかと考えていた際、お父さんがした話の流れでそのチャンスがありました。私たちがやっとの思いで声を上げたのに、よくわからない屁理屈で「私たちが間違っている」と恫喝しましたね。
まさか、あそこまでのことになるとは思いませんでした。
あの怒り方・暴れ方を見て、「あぁ、やっぱり変わっていなかった…。」
そう思いました。
お母さんが亡くなり、私たちがしがみついてきた「家」はもうありません。
あなたが自ら崩壊させたのです。
私たちはあなたから逃げます。もう関わらないでください。お願いします。
自分の精神疾患に気づいて、他者との関わり方を見つめ直してくれることを遠くから願っています。
さようなら
自己愛性パーソナリティ障害の父と絶縁しました③
前回の続きです。
父と絶縁するにあたって、私たちは、家族を守るために弁護士さんに相談しました。
弁護士さんに、これまでの家族関係や最近の話をしました。
父がよく行っていた「殴るぞ!と怒鳴り、テーブルを殴る行為」は、身体への害悪の告知であり、殴られていなくても、「お前をこうしてやるぞ」という脅迫罪になるそうです。
母は、実際に物を投げつけられたり殴られたりしたことで、顔面にアザができたことがありますがね…(母を私の家に連れて帰ろうと思いましたが、母が拒否しました…。悔やまれます…。アザの写真を撮っているので、最期の切り札として取っています。)
父は「自分の感情を抑えることができないこと」を猛省するべきですが、自己愛パーソナリティ障害者にそれは無理だそうです。実際に、父は自分が悪いとは考えておりません。
そうなると、私たちはもう逃げるほかありません。もちろん安全に。
私たちは、次に父が何かアクションを起こしたら、弁護士さんへ依頼することを決めました。
数日過ぎたころ、父からのアクションがありました…。
とにかく、怖かったです。
そして、姉と相談し、弁護士さんを通すことにしました。
父の今までの行為を、弁護士さんを通して明るみにすることで、やっと閉ざされた家庭から正攻法で自分たちを守ることができました。
これから父が老いていく中で、どのような状況になっていくのかわかりません。
どんな権力者でも老いは必ず来ます。
父がどのように自分を見つめて過ごしていくのかが、子供として気になります(こんなことをされているのにまだ心配をする気持ちもあります)が、もう考えるのはやめるように努力しようと思います。
自分を説得するために、以下のように考えるようにします。
①父は人を愛せない
父は、私たちをモノとしか見ていなかったことが恫喝時にわかりました。悲しいことに、そのようなことを言われました。子を持つ親になって、その異常さに気づきます。
母自身も「自分はあの人の所有物なんだ。」と言っていました。
愛されていなかったのだと思うと、絶縁を受け入れたことに罪悪感が無くなっていきます。
父は、自分の思うように動く駒が欲しかっただけです。そこに、無償の愛なんてありません。
②父のせいで、私たちはアダルトチルドレンになった
私たちは、機能不全の家庭で育ったので、精神的に色々と抱えています。
自分のための人生を歩むために、「父のせいで」と思うようにします。今まで、このメンタルの弱さや性格を「自分のせい」と思いこみ、鬱になる寸前まで行きました。(一時、脳神経外科に通いました)
顔色を伺いながら生活する人生から脱却していいのです。
③自分のこどもを守るため
父と孫は少なからず接触がありました。私が恫喝される現場を近くで見ていた子供たちは、あまりのことに泣き出しました。
人が恫喝されるのを見るのは、人生で初めてだったのです。
こんなことをされる場所へ、こどもを連れて行きたくありません。父と離れることは、子供を守るために必然の行為です。
弁護士を通すことで、わたしたちは、父のマインドコントロールができない存在となりました。
自分の人生をやっと歩きだせそうです。
自己愛性パーソナリティ障害の父と絶縁しました②
前回の続きです。
「縁を切る」と父から言われたので、初めてそれを実行しました。
ちなみに、姉の絶縁は2度目です。(悩み続けた母のために、私が連れ戻してしまいました…)
親戚から、「父が可哀そう」との話でたまに電話が来ます。
私たちからすると「??」です。
いや、一方的に縁を切ると言ってきたのは父の方です。
父が可哀そう?
なぜ、そうなったのか。
父は、人を自分の論理で言いくるめることに長けています。
親戚もその論理に流されてしまったのでしょう。
気が付くと、私たちがされた「恫喝やモラハラによる恐怖」は無かったことにされ、父が「子に見放された可哀そうな親」という構図が出来上がっていたのです。
気が付いたら、
被害者だったはずなのに、加害者のような扱いを受けました。
親戚も私たちの話を聞くと、すぐに「父がおかしい」ことをわかってくれるのですが、しばらくすると、また「父が可哀そう」と電話してくるんです。
同じことの繰り返しで、私たちの心は疲弊していきました。
寝ていても動悸がするし、もしかして自分が間違っているのか…とさえ思うのです。
姉も、ストレスから蕁麻疹が出ていたそうです。
そこで、親戚に「私たちは、とにかく父が怖い。やっと離れることができたのに、このように戻そうとされると、精神的におかしくなる。」と正直に伝えました。
私が涙ながらに訴えたことで、親戚もようやく理解してくれたようで、
「今後、父との仲を取り持つことはしない。」と約束してくれました。
父は「子供たちが悪い。自分はなんてかわいそうなんだ。」というような手紙を周囲に送っているようで、完全に私たちが悪者になっています。
子供としては、少なからず望みを持っていたのですが、残念ながらその願いは届きませんでした。
私は「自分」があまりなく、人の意見に流されやすいタイプです。
姉は昔からしっかり者で、そんな私を支えてくれる存在です。
姉がいてくれて本当に良かったと思います。
次回に続く…
自己愛性パーソナリティ障害の父と絶縁しました①
いきなりですが、父と絶縁した話を書きます。
自分自身、精神的に不安定なので、ブログで解消したいという考えです。
まず、父について。
父は「昭和の頑固親父」そのままで、家庭内での暴君でした。
父自身、怖いと思われることを喜んでいました。(意味が分からないですが…)
母は父の顔色を伺い、私たちも幼い頃からそれが当たり前でした。
父は、本当にくだらないことで手が付けられないほど暴れてたんです…。
大人になってからは、父が少なからず温和になってきていることで、私たち子供は少しずつ父との距離が近くなっていきました。
が、ある日、父との距離を誤ったのでしょう。
昔からよく見た風景「テーブルを叩く、皿を投げつける、人をどこまでも虐げる叱責」を目の当たりにしました。
ちゃぶ台をひっくり返す、ガラスを割る、皿を叩きつける(投げつける)、殴る、これでもかと叱責する(モラハラ)、
などは、日常茶飯事だったんですが、久々にやられて大人になった私たちは、かなり引きました。
が、病気の母を人質に取られていたので、その場を何となく切り抜けました。
その後も、父は、私たちに恫喝をしたことを謝罪する気持ちはゼロで、そうさせた子供たちが全て悪いという論理を繰り返します。
謝れと言われても、何を謝るのかが私たちには理解できません。
なぜそんな考え方になるのかをネットで調べまくりました。
見事に当てはまるのが「自己愛性パーソナリティ障害」でした。
私たちが父へ言った言葉は、世間一般的に見て正しい意見でした。
が、父にはあり得なかったのでしょう。
母が他界した後も、同じ論理を繰り返しました。
自分のやっていることを正当化するために、私たちを恫喝し、人間的に言ってはいけないような言葉も私たちに浴びせました。(サンドバッグってこのことですね)
父から「出ていけ!縁を切る!」と言われました。
人生でこのフレーズを聞くのは何度目でしょう。母を父から守ったときに、二度は聞きましたね。他にもあった気がします…。
とにかく、縁を切りたがる人です。
母が亡くなり、守る人を失った私たちは、もう父の支配下に戻ることはやめました。
父は「自己愛性パーソナリティ障害」なのだろう。
きっと、反省はせず、私たちを親不孝者として考え、敵視していくことでしょう。
幸い、同じ考えを持つ姉がいるので、精神的に支えあうことができています。
続きは、また今度。